昭和52年11月19日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 金光大神の教えておられる事は、いつまでも尽きぬおかげを話にして残しておられるのです。と言う事は全てが御徳を受けさせて頂けるというお話なんです。いつまでも限りなく、言うなら無尽蔵と言うか無限にとか、そういうおかげが受けられる話なんです。だから一言にして言うと、金光大神の教えられた事は、御徳を頂けれる「こういう信心をすれば御徳を受けられる」と言う話を説いて残しておられるのです。ですからおかげを受け同時に御徳が受けられる、生き方または頂き方をしなければならないと言う事。
 だから頂き方が、まあ言うならば頂き方が難しいのです「信心はみやすいものじゃけれども、氏子から難しゅうする」と仰る、信心はみやすいけれども、その頂き方が難しいのです。先日ある先生が新聞に大きな見出しで、今の教団特にお道の教師、教会「これでよいのか」と大きな見出しのもとに書いておられるから、本当に何か本当に教団が言うなら甦る様な、生き生きした事が書いてあるだろうと思て読ませて頂きましたらそれこそ、これで良いのかと言いたい様な事でした。
 問題はその先生自身が、おかげを受けておられないという事実ですよね、どんなにそれが、話を聞きますと、もう家庭が全然乱れておられる。そして成程一応、まあもっともな事を言うておられるけれども、それは今まであらゆる人が、ある意味で言うて来た事、言い古して来た事。ですから新しい事でも言うならば、これなら、絶対と言える様な話でも何でもなかった。
 見出しにはだから教団が、こういう風にならなければいけないと、自分の話しておられる事を、まあ強調しておられる訳ですけれども、まあ私が読んでは、こういう具合に読んでしもうた後にこれで良いのだろうか、と私は思ったんです。ご自分がその通りの事をしておられて、その通りのおかげを頂いておられないのですから、もう何十年教師を蒙っておられて、偉い教職にも、教職にも選ばれなさった先生なんです。ですからその信心はみやすいけれども、まあ言うならば御徳の頂けれる、頂き方をすることが難しいという事になるのです。
 その難しい証拠になら本当にまあ数えるだけしか、御徳を受けて、それこそ無尽蔵に限りなく、おかげの頂けれる道を説かれたり、またそれを残されたという人が少ないという事であります。そういう意味でです。私は愈々もって、合楽で教えておる事は非情に希少価値のある、だから御教えだと。本当に頂いて自分のものに、言うなら血に肉にして行かなければ、言うならば勿体ない話だという事でございます。そこでその言うならばその基本になるもの、その基本姿勢というものを、まずつくらなければならない。
 昨日のお月次祭の時にも申しましたが、平和台じゃなかった常盤台、東京の常盤台これは、泉尾教会の二番目の息子さんだそうです。こういう事を書いておられます。生きて行く内で出会う事の一切を有難い事と受けさせて頂く事が基本であると思います。事柄の善し悪しは後回しにして、まず全ての出会いを合掌して受け止める事が大切であります。そしてそこからその出会いによって、自分がどうならせて頂けば良いか。
 自分の命の営みがより良い方向に向かわせて頂くには、どうすれば良いのかを神様にお願いして行くのです。出会う問題に押し潰されたり、出会う事柄に有頂天になって、浮き足立ったりするのではなく、その事柄に祈りを込められている神様の思召しに合掌して、そこからの生き方を求めて行く事が大切であります」いわゆる合楽で言われている成り行きを尊び、成り行きを大切にしていかなければならない、全ての事事柄に御の字をつけて、御事柄として受けなければならない。
 合楽の場合は、そこになぜそれを御の字をつけなければいけないか、なぜ成り行きを大事にしなければならないかという事を、言うなら何十年間説いて来てる訳です。神様だけが有難いのではない。お祭りしとる神様だけが有難いのではない。その神様の働きを大事にしなければならない。それは神様の働きなのだから、それは神様があなたに求め給う修行なのだから、だから御の字をつけなければいけないと言う。これがお道の信心の基本姿勢なんです。その基本姿勢をです。
 なら合楽では、まああらゆる角度から、なぜ大事にしなければならないかという事をです。それが神様のお心だという事を、まあ色々な角度から説く訳です。ですからこれが基本の姿勢にならなければならない。そこからこれはどういう事かと言うと、もう絶対の事なんです。例えば教団全体がです、ここんところをまあ言うならば先生であろうが、信者であろうがです、こういう頂き方が本当なんだと言う事をまず、基本姿勢を作らせなければいけない。そこから一切の教えが生きて来るのです。
 だからここの、ここんところを疎かにして、どんな素晴らしい御教えを頂いても、それはおかげを受けても無尽蔵にと言うか、限りなく頂けて行けれる徳にはならないという事です。「尽きぬ話を話にして残しておく」と言う、その話の全てがです、ここのところが基本にならなければならない。改めて本気で言うならば、愈々成り行きを尊び大切にし、全ての事に御事柄としての受け方が出来なければならないか、という事を説く訳です。しかも最近の合楽での、その成り行きという事を頂くという事はです。
 起きて来る全ての事を合掌して受けるという事を、此処にも書いてありますが、その合掌して受ける事も、まあいつも頂く様にほうれん草の言うなら根も、葉も枯れたところも食べられない様な所でも、一切を頂いて来た私の四年半これが基本の、金光教の基本になるという様な事を夢分からないで、それを行じて来た。
 ただあれもそれこそ人がした修行なら出来ん事ないと思て、あらゆる様々な修行をして来たけれども、合点の行くおかげにも、合点の行く事にもならなかった。そこでまあ是から私が修行させて頂くのは、私の上に起きて来る一切全ての事をもう黙って受け抜く、受けるという事を修行にしようと思うて、その事に本気にならせて頂いたら、今から考えますと、ようもあんな事を黙って受けられたと思う様な事が受けられた。
 それが四年半続いた。時に初めて神様が四年半の頂き方と言うのは、これは余りもの言うならば頂き方である。頂けるものと頂けんものがある。例えば泥がついとると泥までガジガジと食べたり、赤い枯葉をそのまま食したりという事は必要はない。もうそれこそほうれん草というのは、愈々食べられる滋養になる所だけを頂け、と言う事になってそれ以来の、例えばこれはだから受けようと思えば、よいよ受けて行けれるおかげ。
 昨日箱崎の佐田先生のお母さんがお参りして見えられた。そして色々お届けをなさる中に、もうそれこそ見事なほうれん草を綺麗に水洗いをしたものを、いっぱいその御神願に頂かれたという事箱崎の教会の上に、今合楽流の信心が染み込んで行っておる、おかげで合楽流の言うならばおかげが立ち初めて来た。それはまあ、昨日のあちらの先生の言葉を借りると、なんちゅうですかね、即決的なおかげを受けておると。難儀な今までおかげを頂かなっかたのが、スキッとしたおかげを頂いて行く様になったと。
 それからお広前にはもう何とも言えん、言うならば神気漂う様な雰囲気が生まれて来たという事。先日も御祈念中に、もうそれこそ爽やかと言うか、清々しいと言うか、もう神々しいと言うか、もう何ともかんとも分からんけれども、その(笑)御神殿から、その流れて来るその、音がもう身の縮む思いで、それで先生が奥に行っておられる、親先生が行っておられたから、呼びに行こうと思ったけれども、その間に(笑)消えたらと思うて、じーっと、まあ実は実際は四十秒だった。
 けども随分長い時間に感じたと言う事。もうとにかく神気が漂う様なね、神様が生き生きと最近では、先生がこちらに修行に来て以来、大祓信行を欠かした事がない。もう長い長い大祓い信行をなさるそうですが、神様が言うならば生き生きとして見えられた。そう言う働きが信者の上に起こって来た。という事正しく言うならば、あのほうれん草でしょう。ほうれん草しかももう枯れた葉も取ってある、根のところも切ってある、もうしかも綺麗に洗い上げてある。
 もう湯がいて頂くばっかりという様な信心を今頂いて行かれておるという事がです、それが信心の基本なのだ、ほうれん草を頂き抜かせて頂くという事が、言うならば信心の基本になるのだという事になる訳です。ですからここを基礎としてです、言うならば願いの信心があり、様々なお礼の信心、お詫びの信心、言わばある訳なんです。これは昨日、福岡の川上さんのお導きで参っておる伊藤さんと言う方がもう随分長く御縁を頂いておりますけれども、生き生きした信心を始められたのはつい最近です。
 この方は何というでしょうかね、例えば記念祭なら記念祭、記念祭に一生懸命に懸けられるんです願いを。記念祭を終わったら、あの霊園のいわゆる御造営という事にもう一生懸命に願われるんです。言うならば訳が分かってあるか、分からんか知らんけれども、その自分以外の事を一生懸命願われるんです。大変難しい何ですかね、弁護士さんになる学校に行っとられる息子さんの事を、事の願いが始まりでしたが、その方の友人の、自分の息子の友人のその方の事を、もう一生懸命に願われるんです。
 しかも一生懸命、願っておられると言うのはね、言うならば、御初穂見れば分かる訳です。一生懸命でなからねば、こんな事出けんと言う感じがするんです。記念祭の時もそうでした。この霊園の事でもそうです。ただおざなりにお願いするというのじゃなくて、もう本気で願うておられる事が分かるんです。そういうところがまあ神様が言うならば、まあ言うなら感じなさったのじゃなかろうかと思うんです。
 こういうな事も、やはり最近私が申しております。その目に見えない所、誰も知らない事、「私があんたの為にお願いしてやりよるばい」と言う事でもない、しかもその内容の充実した願いを誰も知らん、神様と私と言うなら本人だけしか知らない事なんです。だからそう言う事に神様がやはり感じなさるのだろうと思うんです。
 今朝方大変なお夢と思われるお夢を頂いたと言うて、昨日お届けされます、それに『もう段が、もうどれだけあるか分からん様な、高い段々を登って行く一番上に自分が立っております。下には合楽の御信者さんと思われる方達が沢山おられます。その階段をです。もうやっとその片足で登って見える方がある。顔はボンヤリして見えないけれども、片足、そして誰かが「この方と結婚するんだ」と言っておられる。
 それがこげな、顔もめっかなければ、片足もなかこたする、結婚せんなんじゃろうとは、もう全然夢ん中では思わなかったって、気の毒なお方、この方の足にもならせて貰おう、顔にもならせて貰おう、と思うて一生懸命御祈念をしておる』お夢でしたと言われるのです。私、昨日研修の時に、皆さんに、この全知全能の神と言った様な事を言うが、あれは大体どげな意味のと言うて、まあ皆に勉強しとる先生方に聞いたんです。
 そして結局、まあこれは私が、「どんな事でも出来なさらん事はない。もう全ての知恵、全ての力を持っておられる神という意味だと私は思うが」と言うて、まあ「そうですよ」と言う訳です。しかもそれはキリスト教、キリストの上に現われる神だという事なんです。だから本当に「この神様は出来なさらん事はない」と私共も言うたり、思うたりしますけれども、実は私共が拝んでおる天地金乃神様という神様はです。もう御自分一人ではどうにも出来なさらん神様なんです。
 言うならば片足を、歩くにも歩きにくはなさる神様なんです。だから金光大神に「神を助けてくれ」と仰っておられる訳です。「天地金乃神を助けてくれ」と。だから私共にもやはり「天地金乃神を助けてくれ」と言っておられるのと同じなんです。だから私共が言うなら、神様の手にも足にもならせて頂こう「御神願御成就の事の為にどうぞ私をあなたの手にも、足にも使うて下され」と言うて願うのもそういう訳なんです。
 そこに氏子の一心、氏子の真心というものが天地金乃神様の働きと一つになった時に、いわゆる全知全能です。言うならば、出来ない事はないという程しのおかげが受けられる神様。だから「氏子あっての神、神あっての氏子」とおっしゃる様に。神だけではどうにも出来ない事ばっかりなのだ。人間がその気に、氏子がその気になってくれて、神の手にも、足にもならせて頂いて初めて、おかげが、神の働きが出来れるんだと言う、私共の頂いとる神様はそういう神様だという事であります。
 ですから、私共がね、今日申します、信心の一つの基本というものが、まずマスターされてる。それをそうだと思い込ませて頂いて、出来ないところはお詫びをして、そしていよいよ一心に縋らせて頂く。いよいよ本気で成り行きを尊び、大事にさせて下さい。今日も一日あなたの心に適う一日であります様にという事は、あなたの働きそのものを大事にさせて下さいという事になるのです。
 金光大神の御教えは何時までも尽きぬおかげの頂けれる御教えだという事を今日聞いて頂いた。だから御教えを例えば教典の全てがそういう力が受けられる、徳が受けられる御教えでありましてもです。本当な事を習え本当な事を行じて行かなければ尽きぬおかげにはならないと言う事であります。その本当な事を教えると言う事。言うなら是がお道の信心の基本だと言うところを疎かにしてです。所謂問題を問題にばっかりして行っとる様な事では、何時まで経っても、本当のおかげが受けられんと言う事になります。
 そういう信心を私は身に付けて、そういう信心を、言うならば世の難儀な人達に実意丁寧、言うなら愛の心を持って伝えて行くという行き方。そして真の信心とは、いわゆる真のおかげが受けられる。真の信心とはいよいよ神様の働きを、働きとして受けて行く。成り行きを大事に、成り行きを尊び、全ての事に御の字を付けて、御事柄として受けて行くという信心が真の信心であるという事を、合楽では、これを私は「これが真の信心じゃろと思う」と言った様な事は言ってない。
 「これが真の信心だ、だから真のおかげが伴うんだ」という風にいっている訳ですから、そういう信心を身に付けて行くという事がです。いよいよ真の信心を身に付けて行く事ですから、真のおかげが頂けて来る、そういう信心を自分だけのものにせずに、その伊藤さんが頂いておられるそれじゃないですけれども、神様との結合、いわゆる合楽する世界。神の手にも、足にもならせて頂こう。
 「御用さして貰う御用さして貰う」と言うけれども、本当の御用は神様の手にも、足にも、思いにも添わして頂こうというのが、真の信心だという事になります。一番最高なところに立っておられるという事は、言うならば合楽で言っておる事が言うなら最高のところにあるんだと。下から登って来る人は顔まであるじゃないやろ分からんし、しかも片足である、その人と結婚しなければならないと言う時にです。
 本当に結婚するからにはその人の言うなら、足がないなら、足にもならせて頂こうと心から思うたと言われる、そういう信心を私は身に付けて行くという事がね。いわゆる勿論その事を稽古さして頂くという事はもうそれは限りない事です。その限りない信心を又続けて行くから、限りない又おかげにも繋がって行く訳ですけれども。「神が教えた事を違わぬ様に」とおっしゃっておられるが、これは本当に大言壮語に聞こえるかも知れませんけれども、私が言うておる事には間違いがない。
 「神の教えた事を違わぬ様に」言うならばです。〇〇先生が言うてござる事、書いてござる事、これは、金光大神が教えられた事を違わぬ様に教えておられるのではなくて、違うた教えをしておられると言うても過言じゃないと私は思うんです。そして私が言うておる事が間違いのない、金光大神が教えて下さった事を皆さんにお伝えしておるという程しにはっきりした信心なんですし。
 だからその事に焦点を置いて、いよいよ、それが、自分が真の信心を頂いて、「真の信心をさせるのが神への御礼ぞ」と仰せられるのですから、日々が神様への御礼の言うならば奉仕が、私共が本当のものを頂いて、本当のものを伝えて行くという事が、神様への御礼になるのですから、いよいよここんところをふんまえての信心、ここんところをいよいよ基本としての、信心を身に付けて行きたいと思うですね。
   どうぞ。